最近ではM&A実施件数が増えるにつれて、M&Aの買収対象会社の人事状況を詳しく調べる「人事デューデリジェンス(DD)」と呼ばれる調査・分析作業をすることが多くなってきました。
しかし、M&A取引の当事者となる多くの人が「人事デューデリジェンス(DD)は具体的に何を調べるプロセスなのか、何のためにやるのか」と聞かれると、即座に答えられないでしょう。なぜなら、人事デューデリジェンス(DD)は、調べるべき内容が非常に広範囲であり、買収する会社の状況によって、どのような点を重点的に見るかが変わってくるためです。
この記事では、M&Aでの人事デューデリジェンス(DD)がどういうものか、なぜ必要なのか、どのような項目を調べるのか、そしてその過程について分かりやすく説明します。
人事デューデリジェンス(DD)とは
人事デューデリジェンス(DD)とは、M&Aにあたって、買収対象会社の人事的側面からどれだけの価値があるか、どんなリスクがあるかを事前に調査・分析することです。これにより、収益性や将来の問題点を見極められ、その後もM&Aのプロセスを進めていくべきかどうか判断できます。
もともとデューデリジェンス(DD)は不動産を購入する際に、その土地や建物の過去の取引やトラブルがないかをチェックすることから始まりました。M&Aのシチュエーションにおいては、デューデリジェンス(DD)は一般的に買収対象会社の現状や隠れた問題を調べ上げ、合併後の経営方針を考えるために活用されています。
特に人事関連のデューデリジェンス(DD)では、M&Aによる買収予定の会社・部門で働く人々の管理方法や、人材の能力やスキル、給料のレベルなどを細かく調べます。これにより、買収後にどのようなメリットや課題があるかを把握し、より良い統合計画を立てるための重要な情報を集めることが可能です。
人事デューデリジェンス(DD)と労務デューデリジェンス(DD)の違い
人事デューデリジェンス(DD)とよく似た言葉に、「労務デューデリジェンス(DD)」があります。この2つのデューデリジェンス(DD)は意味が大きく異なるため、それぞれの違いをしっかり理解しておきましょう。
労務デューデリジェンス(DD)は、企業がこれまでに労働関連のルールや法律をどれだけ守ってきたかを調査・分析することです。例えば、残業代がきちんと払われているか、労働基準法に沿っているか、従業員との契約が適切に守られているかなど、主に数字でわかる情報を基に分析します。労務デューデリジェンス(DD)を通して、M&Aの買収対象会社が抱える可能性のある問題やリスクを明らかにし、それが財務上の評価にどう影響するかを確認します。
これに対して、人事デューデリジェンス(DD)は、会社が今後どのように人材を管理し、問題を解決していくかに焦点を当てて調査・分析を行います。特に、M&A当事会社が経営統合した後にうまく一体となって働けるように人や組織をどのようにまとめていくか、つまりPMI(Post-merger integration)の計画を立てることが主な目的です。この過程で、リスクの発見、人材や組織の価値の評価、そして経営統合後の人事戦略に必要な情報を集めて分析します。人事デューデリジェンス(DD)では、従業員のやる気や感じ方、経営統合によるコストや文化の違いなど、数値で表されない定性的な側面が重要視されます。
人事デューデリジェンス(DD)は「HRDD(Human Resources Due Diligence)」と呼ぶこともあり、会社の文化やリーダーシップ、人材のスキルや将来性など、人に関する要素に注目します。
一方、労務デューデリジェンス(DD)は、残業代の支払い状況や労働契約の遵守など、具体的な数字やデータに基づいて分析する点が特徴的です。
人事デューデリジェンス(DD)と労務デューデリジェンス(DD)は、それぞれM&Aの買収対象会社の異なる面を明らかにする調査です。M&Aを成功させるためには、これら2つを含めて様々な観点からデューデリジェンス(DD)をしっかり行い、得た情報を全体的に分析することが大切です。そうすることで、思わぬリスクを避け、会社の価値を高められるでしょう。
人事デューデリジェンス(DD)の目的
人事デューデリジェンス(DD)の主な目的は2つあります。
1つ目は、M&Aにより会社を買収する前に、その会社が人事に関してどんな問題を抱えているかを見つけ出すことです。これを行うためには、人事専門のコンサルティング会社や社会保険労務士などのプロの手による詳細なチェックが不可欠です。
2つ目の目的は、M&Aによる買収が完了した後、スムーズに会社を1つに統合していくための準備をすることです。人事デューデリジェンス(DD)を通じて、買収予定の会社の人事について詳しく把握でき、この情報を基に買収後の統合計画を立てることが、M&Aの成功の鍵を握っています。
人事デューデリジェンス(DD)が必要な理由
人事デューデリジェンス(DD)が必要な理由は、M&Aの実施にあたって起こりうる人事関連のトラブルを把握し対策するためです。
従業員のやる気が下がってしまい、合併や買収で期待された良い結果(シナジー効果)が得られないことが、M&Aにおける大きなリスクとして認識されています。従業員が会社で勤務する上でのモチベーションをなくさないようにするためにも、人事デューデリジェンス(DD)を入念に行い、M&Aの実施にあたって起こりうる人事関連のトラブルをしっかり分析し、対策を立てることが大切です。
また、M&Aの実施後に人件費を適切に減らしたり、従業員のスキル向上を図ったりするなど、人事面でのプラスの効果をしっかり出すためにも、人事デューデリジェンス(DD)は欠かせません。
人事デューデリジェンス(DD)の調査項目の例
下表に、人事デューデリジェンス(DD)の調査項目として主要な例をまとめました。
調査項目の例 | 概要 |
人事構成 | M&A対象会社の従業員がどのような職種に分かれているか、管理職や非管理職はどれくらいいるかなど、従業員の全体像を把握する。また、彼らの勤続年数や担当している仕事の内容も確認する。 |
労働協約・労働条件・労使協定 | M&A対象会社が従業員と結んでいる労働協約の内容や、労使間での合意事項、就業規則をチェックする。これらの情報から、買収後に従業員をどのようにまとめていくか、働き方のルールをどう統一するかを検討する。また、M&A対象会社に特別な支障になりうる労働条件や負担があるかも確認し、M&Aが労働協約で取り決められている場合には、その情報の秘密を保ちながらどのように労使協議を進めるかも検討する。 |
労働契約 | 一般的な労働契約の内容と、特別な労働条件で働いている従業員がいないかを調査する。特別な労働契約がある場合は、その詳細を把握する。 |
労働組合 | 労働組合の存在有無を確認し、存在する場合にはその労働組合がどのような上部団体に属しているかを把握する。また、労働組合に加入している従業員の割合や、過去の労使交渉の内容も確認し、経営にどのような影響があるかを検討する。 |
人件費 | M&A対象会社における人件費の詳細をチェックする。調査対象範囲には、給与だけでなく、退職金制度や健康保険、厚生年金などの給与以外の人件費も含まれる。退職金や年金制度の費用が大きいため、これらの制度の詳細に注意し、隠れた負債がないか確認する。また、労働時間、残業状況、残業代の支払い状況や法令違反の有無、役員の人件費、退職慰労金、生命保険の加入状況も確認する。 |
組織構造と職務権限 | M&A対象企業の組織構造や、各部門やチームの職務権限、担当業務をチェックする。 |
人材 | 役員や従業員を問わずに事業上のキーパーソンは誰なのかを特定し、そのキーパーソンの経歴や能力を把握する。キーパーソンの業務に対するモチベーションの源を把握し、キーパーソンが退職しないための対策を検討する。離職率が高い場合には、その原因についても調査する。 |
労災状況 | 労災事故の発生や、その補償の状況をチェックする。 |
休職・退職・解雇の状況 | 過去と現在の休職、退職、解雇の状況から、M&A対象会社が抱える潜在的な負債やそのリスクを評価する。 |
有期契約労働者の雇用期間 | 有期契約労働者が、事実上無期雇用と同じ状態になっていないか、または法的に無期契約に転換する条件を満たしていないかを確認する。特に有期契約が5年以上継続している場合、労働者が無期契約に転換できる可能性があるため、注意が必要です。
有期労働契約であっても、無期雇用と実質的に同じ状態になっている場合や、過去の更新の実態などから雇用継続への期待が合理的であるとされる場合で、雇止めが社会通念上相当でない場合は、今までと同一の労働条件で更新の申込みを承諾したものとみなされるため注意が必要。 |
人事デューデリジェンス(DD)を行う方法と流れ全6ステップ
人事デューデリジェンス(DD)を行う際は、大まかに以下の流れで進めていきます。
- 秘密保持契約を締結する
- M&A対象企業に資料開示請求を行う
- 各種就業条件を分析する
- 基幹人事制度(等級・評価・報酬等)を分析する
- 退職金・年金制度を分析する
- 分析結果を経営統合に伴う新人事制度移行に活用する
それぞれのステップでやるべきことを中心に順番に詳しく解説しますので、自社が関わるM&Aにおける人事デューデリジェンス(DD)の実施前に把握しておきましょう。
①秘密保持契約を締結する
通常、会社同士がM&A契約について基本的な合意に達すると、それぞれの会社の人事部の責任者たちが集まって、今後の経営統合の具体的な作業について話し合いを行います。
ここで非常に重要なのが、秘密保持契約の締結です。なぜなら、統合の準備過程で共有される従業員の給与やその他個人に関わる情報など、広範囲にわたるデータの安全を守るためです。人事デューデリジェンス(DD)では、これらの情報を買収対象会社から集める必要があるため、秘密保持契約を締結し、情報が外部に漏れないようにすることが不可欠です。
②M&A対象企業に資料開示請求を行う
人事デューデリジェンス(DD)を行う際、M&Aにおける買い手側の企業はM&Aの買収対象会社から必要な情報の提供を求めます。これに応じて、M&Aの買収対象会社は、求められた資料を提供することになります。
この過程で交換される資料には機密情報が含まれることが多いですが、通常、人事デューデリジェンス(DD)が始まる前には秘密保持契約が結ばれており、情報が外部に漏れるリスクが軽減されています。
人事デューデリジェンス(DD)でよく要求される資料には、以下のものがあります。
- 組織図
- 従業員のリスト
- 就業規則
- 給与や退職金に関する情報
- 役員の退職慰労金に関する規定
- 給与台帳やその他の台帳
- 勤怠記録
- 労使協定に関する文書
これらの資料の提供を受けて分析することで、買い手側は買収対象会社の人事状況を詳しく理解することができます。
③各種就業条件を分析する
人事デューデリジェンス(DD)の際には、M&Aの買収対象会社の就業規則に書かれている勤務時間、休憩時間、休日や休暇、出張の旅費などの条件にどんな違いがあるかをしっかり確認します。例えば、M&Aの買収対象会社とは異なる会社の規則と比較して、内容の違いや、一方の会社には存在するもののもう一方には存在しない規定がないかなどを詳しく見ます。
さらに、M&Aの買収対象会社が今まで守ってきた就業条件が、法律や労働協約、就業規則、労働契約に合っているか、法律違反がないかなどもチェックします。
就業条件を分析することで、現在の人事システムをそのまま続けた場合に統合後の会社にどれくらいの財務影響があるかを理解できます。また、就業規則を変更する際に従業員に不利な変更が生じるリスクも把握できるでしょう。
例えば、出張費用は普段から従業員全員に支払われるわけではないので、人件費の計算時に見落とされがちです。しかし、出張が頻繁にある会社では、出張費用の水準や支払基準が大きな財務への影響を与えることがあります。このような場合、過去の出張データを基にして、出張費用の規則を変更した場合の財務への影響を試算することが大切です。
④基幹人事制度(等級・評価・報酬等)を分析する
M&Aを検討する際、買収対象会社の人事制度をしっかりと理解することが重要です。例えば、従業員の等級や評価方法、給与の仕組みなど、基本的な人事制度の違いを確認することが求められます。具体的には、買収対象会社の人事制度に関する資料、等級体系、昇進や降格の基準、評価の方法と期間、給与の計算方式や水準などを詳しくチェックし、これらの制度がどのような財務的な影響を与えるかを定量的に分析します。
この分析を通じて、人件費の現状と将来の推移を理解し、それが事業計画の財務にどう影響するかを把握します。例えば、総人件費や各種の人件費、従業員の構成の変化などを基に、将来の人件費を予測し、どのような課題があるかを検討します。
⑤退職金・年金制度を分析する
M&Aによる経営統合にあたっては、M&A当事会社の退職金や年金制度をしっかり比較して、違いを理解することも大切です。退職金・年金制度は企業の財務に大きな影響を与えることがあるので、詳細な分析が必要です。必要であれば、年金計算の専門家であるアクチュアリーに相談して、より正確な情報を得ることも考えましょう。
退職金や年金制度の詳細な調査を行うことで、将来的に企業にどれくらいの費用がかかる可能性があるか、その推定額を知ることができます。ただし、退職金や年金制度を変更する場合は注意が必要です。変更によって従業員が不満を持ち、それが訴訟に発展するリスクもあります。このようなリスクを避けるためには、従業員の受け入れられる移行措置を考えるなど、慎重な対応が求められます。
⑥分析結果を経営統合に伴う新人事制度移行に活用する
M&Aによる経営統合後に新しい人事制度を作る時には、統合した会社のビジネスの形態や経営の方針を基に、必要な制度の内容を考えます。ただし、新しい人事制度は理想的な状態を目指すものであり、現状から大きく変わることが多いため、その変更過程にはリスクが伴います。人事デューデリジェンス(DD)を通じて、これらのリスクをあらかじめ見つけ出し、新制度への移行や社員への情報提供の計画を細かく立てることで、制度の変更をスムーズに進めることができます。
例えば、新しい人事制度に移行する際に、M&Aによる買収対象会社の従業員の給与を大幅に下げる必要性が出てくるケースがあります。従業員の給与が下がると、それによる法的な問題や社員のやる気の低下といったリスクが高まります。しかし、人事デューデリジェンス(DD)でこれらのリスクを事前に特定しておけば、問題が起こったときの対応策を適切に選択することが可能です。
具体的なリスク対策としては、給与が下がる従業員の中でも特に重要な人材(やる気を落としてはいけない従業員)を見極め、管理職と相談して調整すること、もしくは経営統合までの期間に昇進や降格を適切に管理してリスクを最小限に抑えることが望ましいです。
人事デューデリジェンス(DD)を任せるべき人と必要な専門知識
本章では、M&A実施にあたって人事デューデリジェンス(DD)を誰に任せるべきなのか、委託する際にかかる費用はどれくらいなのかについて解説します。
人事デューデリジェンス(DD)は外部の専門家に委託するケースが多い
結論からお伝えすると、中小企業を対象とするM&Aの実施であっても、人事デューデリジェンス(DD)を行う際は、人事分野に精通するコンサルティング会社や社会保険労務士などの外部の専門家に委託することが望ましいです。
人事デューデリジェンス(DD)が十分に行われないと、M&A成立後にM&Aの買収対象企業に在籍する従業員の流出など深刻なリスクが生じるおそれがあります。将来的に大きなトラブルに発展させないためにも、外部の専門家への委託を検討しましょう。
人事デューデリジェンス(DD)を外部の専門家に委託する際の費用相場
外部の専門家に委託する場合、人事デューデリジェンス(DD)の相場は依頼する内容や買収先の規模感などにより違いは出てきますが、大まかな目安として数十万円から数百万円程度となるケースが多いです。
依頼内容などを工夫することで費用を抑えることも可能ですが、結果として必要な情報を得られなければ人事デューデリジェンス(DD)を実施する意味がなくなるため、信頼できる専門家に相談しながら業務範囲を決めることが大切です。
人事デューデリジェンス(DD)を行う時の注意点やリスク
人事デューデリジェンス(DD)を行う時の代表的な注意点やリスクには、以下が挙げられます。
- M&Aの規模に応じて調査範囲を決める
- M&Aスキーム別に起こり得る人事関連リスクを把握しておく
それぞれの注意点を順番に解説します。
M&Aの規模に応じて調査範囲を決める
人事デューデリジェンス(DD)を入念に行わなければ、M&Aの交渉中、その交渉プロセスを止めるほどの大きな問題が突然見つかるかもしれません。とはいえ、人事デューデリジェンス(DD)を徹底的に行いすぎると、その費用もかさむため、適切な範囲で行うバランスを見つけることが重要です。
M&Aスキーム別に起こり得る人事関連リスクを把握しておく
人事デューデリジェンス(DD)を行う際は、特にM&Aを複雑にする可能性がある問題や将来的に予想外の費用がかかる事項、企業の評判を下げる可能性がある事項に注意が必要です。
例えば、企業の合併や会社分割などのスキームを採用する場合は、これまでの労働契約をそのまま継承しますが、この時に見落としがちな潜在的な負債や偶発的な負債がないかをしっかり確認することが重要です。
労働契約は、M&Aのスキームによって与えられる影響が異なるため、M&Aの計画段階から労働契約がどのように影響を受けるかを理解し、人事デューデリジェンス(DD)だけでなく、M&A後の経営統合(人事PMI)の際も、上記のような問題に特に注意を払う必要があります。
合併で起こり得る人事関連リスク
合併のスキームを選択する際、従業員の労働契約は原則として変わらずに新しい会社へ移行します。法的には、従業員が不利になる状況は考慮されません。
厳密に言うと合併によって従業員の雇用主が変わりますが、それまでの労働契約はそのまま新しい雇用主に引き継がれます。結果として、合併後の会社には異なる複数の労働条件が存在することになります。
会社分割で起こり得る人事関連リスク
会社分割時には、従業員の労働契約が新しい会社に移る過程で、従業員に不利な状況が生じることがあります。具体的には、会社が分割される際に作成される契約書や計画書に、どの労働契約がどの会社に移るかが記載されます。これにより、従業員の権利や契約上の地位が新しい会社へ移行することになります。
ただし、どの従業員が新しい会社に移るか(または移らないか)は、従業員自身で決めるのではなく、会社分割を行う会社同士の合意によって決定されます。この過程で、一部の従業員が不利益を受けるおそれがあります。このような不利益を受ける可能性がある従業員を守るため、会社分割に伴う労働契約の承継に関しては、法律で特別な規制が設けられています。
会社分割が行われる際、分割対象となる事業部に主に勤めている従業員の労働契約は通常、買収側の会社に移行します。この移行は、会社分割を決める契約書や計画書に、どの従業員が新しい会社に移るかが明記されている場合に行われます。
もしも、特定の従業員がその事業部で主に働いていたにも関わらず、移行する従業員のリストから外れてしまった場合、その従業員は異議を唱えることができます。異議を唱えるための期限までに正式に異議を申し立てた場合、その従業員は会社分割による新しい会社への移行対象となります。
通常、会社分割の実施にあたって、分割対象の事業に直接関わっていない従業員の労働契約は、そのまま元の会社に残ります。ただし、会社分割の契約書や計画書にその従業員が新しい会社に移る旨が明記されている場合は、その従業員も会社分割によって新しい会社に移ります。
会社分割の対象事業に直接関わっていないにも関わらず、新しい会社に移ることになった従業員については、異議を申し立てる権利があります。異議申し立ての期限内に正式に異議を提出すれば、その従業員は新しい会社への移行対象から外されます。
以上の法的枠組みを踏まえ、会社分割の前に、特定の従業員を分割される事業から別の部門に移すこともあります。この対応は、会社分割によってその従業員が不利な立場になるのを防ぐため、もしくは元の会社にその従業員を留め置くために行われます。
しかし、会社分割時の労働契約の承継に関して、厚生労働省は「分割前に行われる配置転換について、従業員が以前どのような仕事に従事していたかに基づいて、その従業員が承継されるべきかを判断するべき」だと指摘しています。
ここで重要なのは、会社分割前に配置転換を行う際には、従業員の理解と同意を得ることです。会社分割による承継が行われると、労働契約の内容に変更はないものの、新しい会社では異なる労働契約が併存する可能性があります。
これを回避するため、会社分割によって一つの会社に統合される従業員に対して、直接承継ではなく、出向という形を取ることがあります。これにより、従業員は一定期間、出向元の会社の労働契約のもとで働き続けることになります。
そのほか、労働条件の統一を目指して、従業員が新しい会社に直接転籍することも検討されます。これは、労働者と新しい会社との間で労働条件に関する合意を新たに行い、会社分割の手続きを経ずに、従業員を新しい会社に移す方法です。
参考:厚生労働省「分割会社及び承継会社等が講ずべき当該分割会社が締結している労働契約及び労働協約の承継に関する措置の適切な実施を図るための指針」
事業譲渡で起こり得る人事関連リスク
事業譲渡を行う際、M&Aの買収対象会社の従業員の労働契約を新しい会社に移すためには、その従業員の同意が必要です。つまり、この従業員からすれば、自分の意志に反して転籍させられる心配がありません。
そのため、特に事業の成功が従業員に大きく依存する場合、売り手側と買い手側の間で「キーマン条項」と呼ばれる特別な合意を結ぶことがあります。キーマン条項では、M&Aの買収対象会社の事業の鍵となっている人物が新しい会社へ移ることの同意を、事業譲渡の成立条件として設定することがあります。また、特定の人物を指名せず、事業に関わる従業員のうち一定の割合が新しい会社へ移ることの同意を得ることを条件にすることもあります。
事業譲渡の際には、全ての従業員が新しい会社に移るわけではなく、一部の従業員だけが移る場合があります。新しい会社に移らない従業員は、元の会社に残ることになります。
M&Aの買収対象会社の従業員を新しい会社に移す方法には、主に2つあります。1つ目は、従業員の同意を得て、その労働契約を売り手側の会社から買い手側の会社へ移す方法です。2つ目は、従業員が売り手側の会社を退職し、その後、買い手側の会社と新しい労働契約を結ぶ方法です。これら2つの中で、より一般的なのは後者、つまり新しい労働契約を結ぶ方法です。これは、M&Aの買収対象会社にある偶発的な債務の引き継ぎを避けるためです。
従業員が売り手側の会社を退職し、買い手側の会社と新たに労働契約を結ぶ場合、従来の会社との労働契約は通常、合意による退職で終了します。その後、買い手の会社と従業員の間で新しい労働契約が個別に交渉され、設定されます。
株式譲渡で起こり得る人事関連リスク
M&Aの中で、株式譲渡、第三者に対する新たな株式の発行、株式交換・株式移転などが行われる場合、これらのスキームはM&Aの買収対象会社の所有構成が変わるだけであり、従業員の労働契約には直接影響しません。その結果、これらのスキームを用いたM&Aにおいては、従業員の保護に関する特別な法的規制は設けられていないのが一般的です。
人事デューデリジェンス(DD)が不十分だったために問題が発生した事例
M&Aの実施にあたって人事デューデリジェンス(DD)が不十分だったために問題が発生した事例を3つ紹介します。それぞれの事例を読んで、人事デューデリジェンス(DD)の重要性について改めて認識しておきましょう。
日本の製造企業A社によるイギリス企業B社に対するM&A
まずは、日本の製造会社(A社)が、自社の2倍の売上を持つイギリスの大手企業(B社)をM&Aにより買収した事例を紹介します。この事例では、B社のCEOがA社の社長に大抜擢されましたが、約1年後に成果を出せずに「家庭の事情」で辞任しました。その後の外国人CEOも経営方針の違いで2年以内にA社を去りました。
このM&A事例から、日本企業が海外企業を買収した後のグローバル経営の難しさが浮き彫りになりました。特にA社には買収後のグローバル事業を牽引できる経営者がおらず、M&A先であるB社のCEOを自社の経営トップに迎え入れるという大胆な判断がなされました。
しかし、このM&A事例では、人事デューデリジェンス(DD)において、グローバル経営を担う人材や体制が整っているか、新しいCEOとA社の経営チームとの間で経営方針をどう統一するかといった観点での調査・分析が不足していたという人事面での課題が明らかになっています。
加えて、M&Aによる買収後すぐにリーマンショックや欧州危機による市場の悪化が起きたことも、業績不振に拍車をかけました。それでも、現在のA社はリストラと新しい収益重視の製品戦略で立て直しを図り、今後の回復が期待されています。
新興企業C社による大手企業D社に対するM&A
次に、新興企業(C社)が、自社の製品ラインアップを拡大するため、当時経営困難に陥っていた大手企業(D社)をM&Aにより買収した事例を紹介します。C社はD社のポテンシャルと自社との相乗効果を高く評価し、このM&Aを進めました。ただし、D社の強固な企業文化に懸念を持ち、統合の過程で大胆な改革を試みました。具体的には、社員に経営危機の理由を説明するビデオを作成したり、管理職を一度全員解任してから能力に基づき再配置したりするなどの施策を講じたのです。
しかし、C社はD社の核となる事業知識を十分に持ち合わせておらず、実際の業務運営に苦労しました。その結果、M&Aによる買収から3年で、D社から移行した管理職の80%が退職し、30代の若手社員の退職率も30%に達しました。かつて地元で人気の就職先だったD社は、組織の混乱が広く知られるようになり、新卒の採用も困難になりました。
時間が経つにつれ、C社による買収で継承したD社の元の事業は規模を縮小し、収益性を確保しましたが、新規事業は断続的な対策の後に失敗に終わりました。
本件M&A事例の失敗の要因は、人事やビジネス分野のデューデリジェンス(DD)による調査・分析不足がもたらした、不適切な経営統合計画にあったと考えられています。
外資系企業E社による日本企業F社に対するM&A
最後に、外資系企業(E社)が、技術力と顧客基盤が強いものの経営に一時的な困難を抱えていた日本企業(F社)を買収した事例を紹介します。E社はF社への配慮から、M&Aによる買収後も以前の経営陣に経営を任せつつ、経営方針や事業戦略については指示を出し、進捗を遠くから監視していました。
ただし、新しい社長がE社からF社へ派遣されたのはM&Aによる買収から数年後のことで、それまでF社の社員は明確な指導や目標設定がなく、業務は混乱していました。一方のE社では、F社の問題点をリーダーシップと組織の体質にあると見て、研修を実施し、評価が低い社員をリストラの対象とする人事制度を導入しました。
しかし、買収後もF社の業績は回復せず、M&Aの買収1年目に最初のリストラを行い、その後もほぼ毎年リストラが続きました。幹部クラスの退職は少なかったものの、能力が高い中堅社員の多くが最初の数年で他社へ移籍しました。その結果、F社は顧客を失い、他社へ移籍した社員による契約の解除も発生しました。
本件M&A事例の失敗の要因は、人事デューデリジェンス(DD)において、M&Aの買収対象会社のキーパーソンとして位置する従業員の重要性を見誤り、彼らを流出させてしまったことにあると考えられています。
人事デューデリジェンス(DD)のまとめ
人事デューデリジェンス(DD)は、企業の買収や合併等を行う際に、対象となる企業や事業の価値を収益性やリスク面から事前に調査するプロセスのうち、人事面に特化したものです。調査範囲は非常に幅広く多岐にわたるため、適切に実施するためには人事デューデリジェンス(DD)に精通する外部専門に委託する必要があります。
人事デューデリジェンス(DD)を委託する専門家は、実績の豊富さで選ぶのがおすすめです。日本ではM&A自体の件数が少ないため、人事コンサルティング会社や社会保険労務士などであっても、十分なスキルを持っていないケースが珍しくありません。
弁護士法人M&A総合法律事務所は、10年来、M&Aを取り扱ってきたM&Aの弁護士がM&Aの法務・業務に対応しており、これまでに300件以上ものM&Aの案件に関与してきました。
弁護士法人M&A総合法律事務所のデューデリジェンス(DD)は、M&Aのアドバイザーとして多数の成約実績を有する弁護士および公認会計士が担当し、統括しております。法的トラブルを避けながらM&Aの実施を適切に判断したい場合には、弁護士法人M&A総合法律事務所にご相談ください。